Boulangerie Bonheur のパン 。 梅屋敷店のもの。三軒茶屋店あります。
the(EC) nudes 『Vanishing Point』
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本を読む、CDを聴く、サッカーを見に行く、うたた寝する、ランチをする、人に会う、買い物する、パソコンの設定をする、絵を描く等々の日々を過ごす。
すべてに言えることは、ロックに生きてるか?ということねえ。あるいは、ロックじゃないことをしてないか?ということにあるのかしら?と思ったりする。
年末にテレビが壊れ、最新型のテレビにしたら見られるようになったBS番組等々。たまたまみうらじゅんの番組を見ていたら、「ロックに生きてるかどうかで飲み屋で殴り合いのケンカになるくらい熱くなる。これをバカじゃないの?と思う方たちはたくさんいるだろうけど、これが一番重要なんで、これで良いので・・・・」という話を「その通りだわ』とわたしも思うわけで、ロックをやっててもロックじゃない人はたくさんいて、パンクだと言いながら、全然パンクじゃない人もたくさんいて(もう〜〜〜すごくイヤッ)、こうゆうことはまったく関係ないと思う人も多かろうとは思いますが、ココんとこがイッチャン!!重要ではないか、ととても真面目に思うわたしでありました。
何か迷ってしまう時に、ハタ、とこうゆうことを考えると迷いがスル〜ッッとなくなりますねえ。絵を描いてる時もそうで、イイ感じだわい、と思っても、最後のところで「ロックじゃないやんけ〜〜〜!!バカバカわたしのバカ!」と思ったら没にすることにしてます。
そんなこんなで生きてますが、そんなわたしでもたくさんの「ああ、ロックじゃなかったわ」という事をしています。今後はそんなことがないようにしたいと、誕生日を前に肝に銘じるのだ。
本当にパンクだなあ、この人、と思う人は周りには数人しかいないと思うケンね。「パンク」ということばはわたしの場合は、相当肯定的に使っておりまして、どんな「たいした事」にも勝ることになっております。うまいとか下手とか、いい人とか極悪非道とか、そういった事も超越し、周りがどうの、稼ぎがどうのも超越し、へこたれたり泣いたり、文句いったり言われたり、踏みにじられたり、踏み台にされたり、でも自分のやってることに自信をもって突き進む情熱のある人、のことを言う。これに宮沢賢治の「雨にも負けず魂」の爪の垢がササとふりかかった程度の人に、わたしはなりたいものだと思っている。
なんでこんなことを思ったかというと(いや、常日頃こんな事バッカ考えてるんだけど)、
もうホトホト重箱の隅をつつくような仕業には関わりたくないという気分になっているからで、重箱の隅に栗きんとんのネロリが多少くっついて残っててもイイじゃん、と今だから言うが、わたしは何事も死ななきゃいい、というくらいにしか考えてないんで、もっとおもしろくて大事なことはいっぱいある、そんな事はつまらん事で、今後いっさいこうゆうつまらん事に頭をちょっとも使うことをしないことを決めたのだ。
しかし、そうは言っても世に流されるわたしでありました。大きな意味ではロックに生きていると自負しているが、細かいトコでは怪しい。怪しい場合は、その都度ロックな方向を選ぶ、というやり方にしたい。
たとえばきのうは梅屋敷のパン屋『Boulangerie Bonheur 』のおいしいパンを食べた。実はおとといも食べた。食べ物のことばっかり考えるのはとてもロックとは言えない。父は早死にしたのだが、常日頃「食べ物の事を考えるのは嫌いだ。薬ですむならそれが一番いい」と言っていて、『ロックだなあ」と思ったものだった。しかし、死んでしまっては仕方がない。
しかしパンは買ってきちゃったし、おいしいし(疑問符だらけ)。で、おいしいから子どもにもとっておいてあげようか、と思ったが、おいしすぎて残さなかった。どうせなら証拠隠滅した方がみんな幸せだ。おとといは分けてあげたから、もうよいだろう。というやり方はロックになる(疑問符)。このように非常に曖昧模糊としながらも、細かい選択がなされ、その基準はロックかそうじゃないか、ということになっておる。
だから勿論「ロック」という言い方は、音楽のジャンルを超えて使っているわけで、たとえば即興のギター演奏についてなども、よくそんな事を思いながら聴いている。最近マイミク(っていうのがどうもロックじゅあないね)I氏が良く音源をUPしてくれてるのでフレッド・フリスのギターソロを聞き直したりしてたが、先日の来日の際の演奏でもそうだったけど、ダラッと休むことがないのがイイ。緩急はあるにしても、間断なくロックなテイストにあふれていた。奇をてらった「間」というのがほとんどなく、緊張感が漂う(昔の方がよりそうだった)。わたしは演奏でも実生活でも休むのが嫌いなんで、そうゆうのがイイ。まったくスローライフなところがない・・・・というところでは今井和雄さんがそうだと思っていて、今井さんはわたしの中ではジャズでも即興でもボサノヴァでもなく、「ロック」な人なのだった。良く書いてますエイミー・デナイオもそうで、少ないながらも手持ちのCDを聴きながら、「ホントに捨て曲のない、間断なくロックしつづける、目一杯やるだけやってるエラい人だわ」と思うのでありました。
今書きながら思ったのだけど、「ロック」というのは「策を弄さない」ということではないかなあ?策を弄さないで生きていきたいもんです。
ここからは音楽話なので、興味のない方はゴメンネ。
エイミーのアルバムは手に入りにくいものが多いですが、ソロのもバンドのもみんなそれぞれ良くて、溢れる才能と、その明るさで、わたしとしては心の中で「師匠」と呼んでおるのです。師匠のアルバムで一番良く聴いているのは「Birthing Chiar Blues」です。わたしの中ではこのタイトル曲はものすごいヒット曲になっていて、マドンナくらい売れてもいいと思っているのだけど、実際はそうでもない。一体どうなってるのだ・・・。こんなにいい曲なのに。このアルバムにはかの有名な(わたしには)『DishWasher』という食器洗い機とコラボしてる曲も入ってます。これはもう現代音楽と現代美術の狭間にある作品で、わたしのハートをギュッとつかんで離さないものでありました。こういった『物』を使った音楽というのは、美術でいえば、いわばデュシャンの「レディ・メイド」の考え方と同じ方向を示していると思う。家電製品などを使う、街の音を使う、というものは現代美術ではこのように古くからやっていることで(ダダやフルクサスを)、音楽の方が明らかに立遅れている。その中でもサティは20年代にすでにこういったことをアッケなく取り入れていて(アッケなくだったために一部の人にしか理解されなかったが)、しかも、現代こういったことを大袈裟に「どうだい、この美術とのコラボレーションは」と嘯きやっている人たちをとうの昔に置き去りにする自然な感覚でやっちまっているのだ。このロックはどうだ!この事実をいつもわたしは思っている。思っているのだ。本当に。だからほとんどのことを実はつまらなく思ってしまっているのだ。自分のことですらああもう本当につまらない、としょっちゅう思っているのだ。思ってはもちなおすんだけど、またこんなにつまんないことはない、とか思ってしまうのだ。やりつくされている、と思うことばかりだ。
あ、興奮しちゃった。元に戻ります。エイミーの話。
それから、マサカーもいいけど、こっちもいいのよ、という気分で紹介したいのが、the(EC)nudesというAmy Denio(sax,acc,vo,b)、Chris Cutler(ds,elec,radio)、Wadi Gysi(g) 三人の『Vanishing Point』。 I氏が Pale Nudesの『Wise to the heat』を紹介してくれたので思い出した。 こちらもとても好きだけれど、前者の方がかなり好きだ。エイミーはいろんな楽器をやるけど、このアルバムでのサックスは攻撃的でおもしろいし、アコーディオンのようなメロディ楽器はずっと鳴ってるとわたしは嫌になってしまうのだけど、この人のは明るくさわやかで気持ちがいい。ベースもアグレッシブだし、歌がまた声もきれいだし歌い込まないところが良い。彼女がやると、相当のことをやっていてもポップスになるところがわたしの好みです。やっぱ師匠は偉大だなあ。ほかにもエイミー師匠のものはいくつか聴いているのだけど、サックスばっかりになると興味がちょいと失せてしまいまして、やっぱり最初の頃のティアックのMTRを駆使して一人で作ったものはおもしろいですねえ。「Birthing Chiar Blues」もそうらしいけど、一人でできちゃうんだよね。というか、一人でやった方が良かったりする場合は多々あり、多分師匠も、バンドでやったあとは一人になりたいのだろうな。そして一人で気が済むまでやり尽くすと、またバンドでやりたくなる、という具合なのではないかなあ?と想像している。この気持ちはよくわかる。
きょうは工房でクロッキーをした。クロッキーはおもしろい。1本の線で短時間で人を描くのはおもしろい。2時間有志のみ7名でやる。順番に5分づつポーズをとる。人をちゃんと見る。個性があふれていて楽しい。 |
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