詩と思想2008年9月号
特集『ロックンロールの詩学』
ゼリーの中の個人的創作風景ーーーーー松本里美
              
      

 


2008年3月号から、表紙のオブジェを担当しています。1年間
のお付き合い。今までの表紙とオブジェはコチラで見られます。
http://www.satomin.jp/works/works.html

9月号のロックンロール詩の特集に、エッセイを書かせていただ
きました。わたしの詩作のお話です。
8ページ分なので長〜〜いです。

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こんにちは、松本里美です。
では1曲目                               

『ヒバリ』

十字路のひとつ手前で
降ろしてほしい そこでいい
そこからはきっと
軽く歩いて行ける距離と思うから
その鳥は嘘をつく 歌うように                                  
捕まったその日も 繰り返した
小鳥市場に着いたなら
わたしの名前を呼んでごらん
見つけ出した時 涼しい声で歌えると思うのなら                        

わたしが捨てた銀の匙
歪んで曇った青い空
誰か拾ったら きれいに磨いて、
ハンカチで包もうか
その鳥は増えてゆき 歌もなくて
雲ひとつ無いのに 見失った
川辺にぼんやり広がった レンゲの花の白い泡
踏んではいけない                     
そこからは一人で歩いて戻るだけ

 突然歌ってしまいました。
1930年代のアメリカのブルーズマン、ロバート・ジョンソンが、ギターの技術と引き換えに悪魔に魂を売ったという
十字路の光景、写真を見ただけでその喧噪で頭が痛くなりそうな香港の小鳥市場の光景、古い銀のスプーンを天にか
ざした時に見えた灰色の青空、子どもの頃に、お風呂場ガス中毒事故(Wow!)にあった時にスローモーションで倒れ
ながら見てしまった、あの世へつづく
レンゲの花畑のぼんやりした光景と、そこで少し浮かんでいるわたしの裸足の
足の裏に触る柔らかい花弁の感触、これら脳ミソに焼き付いていたヴィジュアルが、ずっとわたしの頭の中で育って
いた嘘つき少女の話と、当時描いていた鳥の絵と絡み合い、フラッシュバックされできあがった曲、でした。

長い説明でした。ふぅ

 2曲目にいく前に自己紹介を少々。
きょうのお客さんにとっては、わたしは、『詩と思想』の表紙の銅のオブジェ制作者、と言えばわかりやすいですね。
そして、このように音楽もやっているのです。ヤレヤレ
 今回のわたしの出演は「ロック詩」特集だからなんですね。わたしの音楽活動は、歌詞を作り、曲を作り、エレキ
ギターを弾き、歌を歌うことです。もう80年代からやっているサボテンというバンドでは、オリジナル曲と同時にサ
ティの曲をエレキでやりつづけ、同時進行で立体、キネティックアート、8mmアニメーション、ウィンドー制作等々。
サボテンではアルバム4枚、フランス、アメリカからオムニバス版等々。時々脳内ブレーカーがおっこち、液体窒素的
休眠状態になりつつも、2003年からはソロ活動と銅版画制作を中心に個展やライブを平行してやり続けて等々。そして
勿論、料理も洗濯も子ども悩み相談も同時進行等々。イラストレーターのわたしが、今ロックやらずして何とする!と
迷わず
エレキギターを買った時、時代はア〜、パンク。そのパッションが間違いなく好きだったのだけど、ドーモ
立体感感じず、退屈でぼんやりしてしまった。しかして、オルタナティブ時代、ウヌ、詩も音もグッとリアルで立体的
だ・・・
がそうなるともう、アエテか当然か、ヒトのを聞くより自分で作る方がおもしろい。パッションと率直さ、立体的な音
楽性と歌詞を求め、さらに
物思いに耽りながら今に至る。音楽も絵も生活も、境目のないゲル状多面体空間の中で浮遊
しとりますわたしの、以上が「さわり」で「すべて」。


 音楽は子どもの頃からクラシックも映画音楽も現代音楽も何でも聞いていたし、ひねくれモンもアヴァンギャルドも
管轄内だけど、今回は「ロック詩」だから、ロックを聴き始めた頃のことを振り返ろう。三つ子の魂は引きズルズルズリ、
ヤードバーズやキンクスやフーや、初期のブルージー・ストーンズや、やはりヤー!ブルーズでメロディアスなビートル
ズ...などの英国のR&Bにヴェルヴェッツ(みなさんご存知のものばっかりね)を。
  それから煌めくグラムロック好きとなり、T-レックス、デビッド・ボウイで盛り上がり、落ち着いたところで渋谷の
ロック喫茶で良く聞いた英国やアイルランドのトラッドやら。奇を衒わないまっすぐで歯切れのよいギターが聞こえるも
の、そしてキャッチーでポップな『歌』が聞こえるものが好きだった。
 その当時は彼らが何を歌っているのかなんてことは特に考えてたわけでもない。昔は彼らもきっとエレキで音が出せれ
ば良かったに違いないし。
 そんなわたしでも、何を歌っているのか気にして聞いていたものもある。それはビート・ジェネレーションの文学的な
部分でより結びついていたアメリカのロックで、ジム・モリソン、ルー・リード、そしてメイヨ・トンプソンのようにそ
の後もずっと『ビート』で『不条理』な言葉を投げかけ、しかも常にキュートな音を創りつづけている詩人ロケンローが
いて、胸を打つ。不条理と闘う<純>、クソッと思ったことを歌う<純>が、率直なギターサウンドで増幅されて胸打た
れる。だけれど、わたしはそう純でもない。だから、不条理は書くがクソッは書かないのだった。あるのは、自分の頭に
浮かぶヴィジュアルを伝えたい、という誠実だけなのでした。

                           
          

 さて、それで、結局のところ、創作というのは日々の欲求とヒトにそれを伝えたいというあからさまな自己チューだと
思っているのだけど、わたしの誠実なる欲求は何かというと、イメージの中にある『妄想』を、わたしの五感で感じている
ように表現したいということで、そのための奮闘努力は楽しくもあり苦しくもあり、それこそが創造の悩ましく艶かしい
現実なのでありますね。憎いヤツです。

 絵と音楽を同時にやっている人は結構いますね。ただ、わたしのやり方は、その二つがシンクロしている形をとってい
るのがちょっと違うところです。この二つを切り離す事はできない、というか、最初からどちらも同時にイメージができ
あがっていることが多いから。銅版画を初めてからの方が以前よりも形にしやすくなっているのは驚きで、なんでなのか
なあ?と考えてみますれば、銅版画が持っている技術的な制約が、却って自由をもたらすのでございます。因果なもんで
ヒトは制約されると、そこからあがいて自ら自由を勝ち取ろうと努力するんですねえ。銅版画の計算で答えが出せる化学
的な部分と、個人的な手の感覚と偶然が渾然一体となってもたらす世界が、ゲル状内浮遊生活者に合っていたのでしょう。


 昨年の11月に出版リリースされたわたしの初銅版画集&ソロアルバム
『Bronze & Willow』では、架空のホテルのお話を
版画で制作しながら、同時に作っていった曲が、まとまってドンと一つになっている。副タイトルにあるように『松本里
美の銅版画と音楽ーその輻輳する物語』となっている。銅版画、曲、物語と歌詞が一体となった形は、わたしのやってい
ることの理想形だと思うので、この作品を作るために理解と資力を尽くしてくださった方たちに本当に感謝の限りです。
 そういえば、エッチングの線の明瞭さが、自分のギターのシンプルな表現と重なり合うのだなあ、ということは、ある
音楽批評家が書いてくださったレヴューを読んで初めて気がついた。こういった逃げない、正面を向いたやり方が好きだ
し、不器用だから
それしかできない・・・ってこと。


 ホテルは、従業員や客や建物やその他もろもろたくさんのドラマが尽きることなく浮かんでくるのが魅力だな。架空の
ホテル『柳ホテル』の中で、わたしは好き放題遊べる。人物の生い立ちから食器の模様まで、壮大な物語を考えながら、
一つ一つのシーンで歌を作る。思いつくまま横道に逸れる、終わりのない妄想と即興の物語。まるでオペラを作っている
ようなこの立体的な素敵な感覚・・・。でもって、あ、これはあの世界だな・・・とわたしは気がついたのでした。

           
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 たくさん聞いていたブリティッシュロックは、何か独特な世界観があるなあ、これって何だろう、と思っていた。それ
は、壮大なストーリー性だったと思うのですよ。それがモンティ・パイソン好きのわたしの心をときめかせていたんです
ねえ。関係なくないんだなぁ、コレが。
何故か、彼らは大げさなのよ。笑いたくなるほど。大げさに物語を作り上げ、見事なコンセプトアルバムを作っちゃう。
エラく大時代的なアーサー王物語だったり、牧歌的なグリーン・ヴィレッジの物語だったり、悩める青年トミーやジミー
の成長と挫折の物語だったり、宇宙人ジギーの苦悩だったり。そこに、風景や事件や鬱屈した想いや、怒り、夢や苦悩が語
られていく。これはまさに、大げさにニュースを伝え歩く吟遊詩人や、文字で書き残すことを禁止されたケルトの口承文
化のDNAなのじゃないのかなぁ。こういった面で特にTHEWHOがわたしの心に響いたのは、ギターもドラム(キース
・ムーンが好きなのだ)もカッコ良く(カッコが良いことはとにかく大事だ!)、また同時にその映画等もおもしろく、
徹底的にその世界を作り上げようとする気力が満ちているからで、しかも、その中の自分を見つめる誠実さと痛々しさが、
ナイーヴなまま表れているのが良いのだ。ロックは痛々しいのが良いのだ。ズキズキッと。そして、このようなナイーブ
な世界をぶれる事なく、テンションを下げる事なく、作り上げられることは、なんてすばらしい事だろう、と思ったので
した。笑ってる場合じゃない。
 当時は意識してなかったけれど、版画と音楽を同時に作り出した頃、これらの世界観が、わたしにとっての理想の形な
のだなあと目からウロコが108トンほど剥がれた。
 ではここでTHE WHOの『四重人格』を聞いてみましょう。

 ウッ、胸が詰まりますねえ。
でも、わたしはそうゆう歌詞は書かないの。何故かというと、「照れ臭」くって。怒りも喜びも屈辱も肉体も青春もみんな
照れ臭い。
 わたしの作品はよくヨーロッパ的だと言われるのだけど、歌詞については、日本的だなあ、と自分では思ってる。だっ
て、今だに照れ臭くってショーガナイんだもんねえー。これについては、我が意を得たり!と思った文章を読んだこ
とがある。それは、武満徹とジョン・ケージの対談。「さわり(障)」という日本人の持つ概念についてで、日本人はこ
の「=ノイズ」を最も美しくもあり障害でもあると捉えているという話。否定と肯定は表裏一体で、どちらかだ、と言っ
ても、大声でいうほどのことではないという「照れ臭い」感じがよくわかるのだ。これはなにも消極的なことではないの
だ。言い換えれば、(彼らの話は、音に対するものだったけれど、)音に限らずこの「障」という一見不自由で不器用な
ものを意識することで、実は自由であること、機能的であることの楽しさや悦びを感じることができるのだ。というまさ
に日本人的なアッケラカンとした(とは言ってなかったけど)渾然一体の魅力に満ちているという話だ。
 何か
ザワザワとした胸騒ぎのようなものは、なだらかに緩やかに心の中に流れている。それは、いつになっても解決し
ないかもしれないけれど、解決などしなくてもわたしは良いのだ。回答は一つではない。時には苦しく、寂しくもあるの
だけれど、そんな事を感じるほどに生きているのねー、という生の実感を含んでいる事の方が大事なのだ。
生きているということは、ノイジーだが美しい。
 そしてエレキギターもノイジーだった。その不器用さが自由を語れるのに違いなく、それは銅版画で制約を受けつつ創
造力はどんどん広がるのと似ている。


『照れ臭い』のもあるけれど、わざわざ身を削っている所をヒトサマにお見せしたいと思ったことはなく、わたしの頭の
中にあるヴィジュアルを丹念に描くことが、わたしにとってはわたしを伝える一番の手段なのだろうなあ、と思っている。
 それは、誰でもが見ることのできる風景ではないからで、
わたしの気持ちが見させた風景だものね。それは小川の渦に
立ち止まる葉っぱの舟だったり。騒がしすぎて却って何も聞こえないようなヒバリの群れの呆然とする光景だったりする。
どこかで見たことがあるようで、絶対に見ることのない光景。
そして、わたしにとってのリアルな情景です。

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 20年も前に書いた『未来の記憶』という歌詞がある。       
「ゼリーみたいな断層があり、動かない花が動かずにある」
という部分。外の空間がすべて少し固めのゼリー状になっていて、そこに家も花も沈むでもなく浮かぶでもなくゆっくり
と呼吸をしていて、風が吹くとスローモーションで少し揺れる様子は、子どもの頃に夕暮れの原っぱを眺めて感じたもの
でした。その後も教室でワイワイやってる友人たちの姿だとか、歩道橋の上から眺めた雑踏だとか、みんなみんなゼリー
の中に入って静かにゆっくりと生きている、と、わたしは自分の後頭葉越しに感じていたのでした。

 絵ではうまくいかぬのだった。では言葉に。うまくできれば言葉が一番簡潔で良い。時は経ち、昨夏「描ける!」と胸
騒ぎがした。「in Jelly」シリーズは銅版画ならではの手法が手助けしてくれたのだった。愛しのゼリー空間は、ここで一
つの達成を見たものの、まだなーんか足りんのよね。それは手触り感なのだ。いかに言葉を尽くし、いかにうまく絵で表
現でき、カッコ良くギターが弾けても、まだだな、と思った。手で触れて、グヌと抱きしめることができたら、それはもう
天国だ、昇天だ、と思ってしまったのだった。それでは却って想像力が削がれるではないか!と言われようともだ。
 そこで、『理想のゲル状』を探す旅に出るわたし。それはあるべき所にあり、それが探せた自分が嬉しい。そして楽し
い。
Yes! It's Jelly. 中に入れるものを作る。必須条件は、適度な重量感と柔軟性で、すでに我掌中にアリ。おまえだ銅板。
嬉しい。楽しい。どうやって浮かせる?どうやってイメージ通りの気泡を作る?どうやって、どうやって・・・
この試行錯誤はなんて楽しいんだろう!


 制作しているうちに、音が鳴る。言葉が生まれる。ヴィジュアルがフィルムのように点滅する
カタカタ。
こうやって途方もない混沌が脳ミソに蔦のように絡み付いていくのだけど、いつもそれはとても爽やかなのだ。なぜなら、
すべては整然と目的地へ向かって進んでいるのがわかっているから。

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 絵描きミュージシャンと絵の話で盛り上がった経験無し。           ●
ギターの話ならみんなイイ笑顔。それでもきっと、絵に向かっている時の方が平安だろうなあ、とわたし思う。ロックは
その正直さゆえに、ダイレクトに喜ばしく、苦しい。心の中にズカズカと入り込むから。だからわたしは、ロック=元気、
の図式を信じない。とゆうか、管轄外。
 そういえば昔、ヴォーグに載っていた墓場に立つディラン・トーマスの虚ろな写真に釘付けになったことがある。(一
編の詩も読んだ事なかったのに)間違いなくわたしはこの人が好きだ、と確信し、「ミルクの森」という言葉にさらにク
ラッとなってしまった。想いを馳せて訪れたウェールズの彼の記念館で、『ミルクの森』の朗読と曲の入ったCDを見つけ
た。でもねー、外国語は、曲にときめかないと、言葉も響いてこないなぁ・・・。曲が印象的であれば、言葉はより鋭く
響く。簡潔さが際立つこともある。わたしは、胸に響く言葉、ザワザワとした感触が残る言葉で描いた情景が、誰かの心の
中で何ものをも
強要することがないようであれば良い、と考える。

 このような感情の曖昧な行方とは別に、どうしても伝えねばならない、ということもあるんだよね。社会に対する憂い
は、どんな表現方法でも、自分ができる手段でやるのがよい。それは、表現活動する者の義務だとわたしは思ってるよ。本
気で。だから、どうしても今これを言わなくっちゃ、と思った時には、わたしもそんな歌を作る。でも、吟遊詩人の時代
じゃないから、詳しい説明はネットでよろしく。やはりそこでもわたしは大声では叫ばない。

  傷ついてしまった気持ちと、それでもこの歪んだ現実を受け入れ生きて行く肯定的な日常を、映画のショットのように
描きたい、と思うだけ。

 では、2曲目を。イラク戦争時の劣化ウラン弾のニュース
を聞いて作った曲。
                          

『化石を見たかい?』

短い通りを走ったら 6時の電車に間に合った         
変わらない朝 でも冷たい風 
きのうと違う
悲しい時には穴を掘る うれしい気分になってくる
ここは穴ぼこだらけだけれど 緑の大地
ここは誰もが永生きだった幻の丘

見知らぬ人は言った
    「愛してあげましょう」                              
「袋の中はなぁに?」
    「おいしいものだよ」
木の上に座って 灰をまく

風車はほほえんで カラカラ回った
滲んだ風が吹いて 砂漠に倒れた
二度とは実らない 麦畑。          

子どもは穴を掘る どこまでも 
楽しいことだけ考えて
ここは穴ぼこだらけだけれど緑の大地             
二度と咲かない花畑でも心の大地                 

ましてあなたの物ではないと つぶやく大地                  
いつか化石になっても残る 永遠の痕
二度と咲かない花畑でも
愛しているのげてす

しゃべりすぎて、2曲しか歌えませんでしたね。
バイバイ!またね
と言ってライブは終わります。                                       

(2008年5月〜6月に書きました)

★『Bronze & Willow』のインフォメーションはコチラから〜〜
http://www.satomin.jp/info/bronzewillow/browillow0711.html
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