前日は疲れて早寝。 翌日14日は早起きして海辺まで散歩にでかけました。 ディラン・トマスが詩作にふけったウェールズのグレイの入り江を眺めました。
朝7時の入り江
ファームホテルの裏からトロトロ森の中の小道を歩き、小さな村を横切って丘を下ると海にでます。海といっても入り江です。朝早かったせいか、それともいつでもそうなのか靄がかかっていて、海も空もグレイになって繋がっていました。草花と動物と山と海に囲まれて、そりゃもぅナショナルトラスト。 この靄のかかった風景にぼぅっとなりました。いつか見たようなこの風景。いつか感じたことのあるような生と死の境のようなゼリーのような湿ったような乾いたような感触。そしてそこに至るまでの森の中の小道。これはもぅディラン・トマスの世界にほかならない。 ヒトはたった1枚の写真、たった1枚の挿し絵で、もしかしたらこれはわたし自身ではないか?わたしのためにある1枚なのではないか?と現実か非現実かウロ覚えの過去の記憶に吸い込まれるように一体となってしまうことがある。その内の1枚が雑誌ヴォーグに載っていた有名なディラン・トマスの写真だったのでした。ロンドンの墓地の中にうつろな目をして立っている。その後彼はこの墓地に葬られる。 それまでに知っていたトマスは、ボブ・ディランが影響を受けた人程度のものでした。だというのに、わたしはこの写真を見て「わたしはこの人が好きだ」と思った。決してかっこ良くない太ったからだと酒やけしたような顔と身体。開高健のように、若い頃は痩せててストイックで素敵だった、というのではない。もともとかっこ良くはないのよ。でも、わたしはそうゆうのあんまり関係ないから。
トマスはここスウォンジーで生まれて育ちました。薄くフィルターのかかったような入り江や小道や断崖や空と共に溢れる言葉を綴りまくり、朗読しまくり、愛し、闘い、アメリカのホテルでボロボロになって39才で亡くなりました。英国詩はその風景描写が特徴のように思われます。また、英国絵画もわたしには風景画ばかりが思い浮ぶ。 派手なところもなく、ただ淡々と広がる自然、あるいは人工的な自然に生への喚起または歓喜があるだろうか? 無い。 キッパリと「無い」、とわたしは答えたい。 自然に心満たされ生を謳歌するなんてものは信用してないのだ、わたしは。自然は過酷だ。似非アウトドア派のわたしにとっては、森の中のその湿った空気の中の深呼吸は、「生きてるってすんばらしい!」と感じるわけではなく、元々死んでいるような細胞がちょっと動くから、なんとか「ああ、生き返った」と思う小さな驚きなのだ。生の謳歌ではなく、生の発見だ。生きていることが当たり前の事だなんて思ってはいけないのだ。自然の前で謙虚になるとはそうゆうことだ。 年寄りは温泉に入って「ああ、生き返った」と言う。ぬるく、ぬるく、生は感じるものなのだ。 トマスの写真に魅せられたわたしは、まず本屋で売られていた唯一の詩集を読むのですが、どうもイマイチ感動が無い。写真のインパクトにはほど遠い。彼に触発されたというボブ・ディランやザ・キンクスなどの作品の方が気持ちがよくわかる。そうゆうのは駄目よ、よし、もう一度チャレンジ。次は評論集を読む。ちょっと言葉の洪水がかっこよく感じられてくる。アナーキーな感じも伝わってくるし、真面目さが良い。では、次は短編を。「ウェールズのクリスマス」という本を原書で読む。日本では売ってなかったので三省堂でアメリカ版を取り寄せた。これは本の中の挿画の美しさやクリスマスの雰囲気が好きだったので大事な1册になった。それと同時に有名な「Under Milk Wood」というラジオドラマをざっと書いたものをネットで見る。なんかこの風景描写がどろ〜んとしていて、わたしのイメージのアナーキーさからかけ離れている感じがした。それでも諦めないわたしです。いや、そうじゃない、わたしが一目見て好きになったこの人はそんなんじゃない!って ある日古本屋でトマスの伝記本を2册見つけた。1冊は最後のアメリカ講演ツアーを中心に、同行した人によって書かれたもので、これは酒と病気でボロボロになっている様子が痛々しい。それでも、自暴自棄にはなっておらず、精力的で前向きなところが良い。もう1册は英語のものだけど写真満載。どちらもやはり写真が良い。わたしは一体何を見てるんでしょう・・・。1枚の写真からイメージを作り上げて、それになんとか現実を引っ張りこもうとしてるのかも・・・。 それから「Under Milk Wood」をちゃんと読んだ。ミルクの森の下では何が起きているのか?特にドラマがあるわけではないのですよ。のんべんだらりとした住人のいろいろが語られるんです。「東京物語」かい!笠置衆かい!と思うほどそれは英国風景画みたいに淡々としていて、ウェールズの入り江のように空と海の区別さえつかないどんよりしたグレイです。そこには生の謳歌なんて勿論感じられないです。なのに、その全編を通じてリズム良く生き生きとして描かれている部分があるのです。それこそが大事なのだと思えました。それは死者が語る部分なんです。このどんよりしたグレイな風景の中で死者のみが生き生きとしている。 ああ、これなんだな、わたしが見たあの写真にはそれがある、とわかった。どんよりと虚ろな目で墓地に立つトマスは、生き生きとした死者の影に抱かれていた。 (06/6/20記)
朝の散歩は清清しく気持ちの良いものでした。でも、朝なのか夕方なのかなんだかわからない感じ。森に入るともっとわからなくなる。 1時間ほど歩いて戻ってきました。本当は入り江に降りてみたかったのですが、それをしてると朝食を逃しかねない感じ。 ホテルは貴族のハンティングロッジだったそうですが、アチラの貴族というのは半端じゃないですね。わたしたちが泊まった2階の部屋なんて、多分メイドの部屋だと思います。メイドや執事やなんだかんだと使用人は20人くらいいたりしてね。馬丁や運転手やガーデナーなんかも抱えてるわけで。ああ、ハンティングするから犬の世話係りなんてのもいるハズ。都会に住むより使用人は多いかもしれない。敷地が広くて、簡単には雑貨屋やパブ(なんてとこには貴族はいかないのか?クラブハウスなんてのは田舎にあるのか?)にも行けないから、娯楽室も充実してる。1ヵ月くらいこんなところで暮らしてみたいと思いました。(ただし一ヵ月) 朝食まで少し時間があったのでテレビを見る。朝7時からハードな番組やってました。日曜日の朝だから子どもも見ると思うんだけど、ゲイの番組らしく、『The RIPEL The CRAZYFEET』(と、メモが残っていた)。素敵なゲイカップルの日常生活が流れてました。ハードに愛しあってました。生の歓喜に満ちあふれてました。そのあとは三角関係のもつれを公開で討論する番組。英国では大デブの女の子と痩せギスよれよれの男の子のカップルを随分目撃しましたが、この番組でも、二人の大デブの女の子が一人のヘナチョコ野郎を取り合ってました。どっちがどうとも言えない泥沼話に、島田紳助のような司会者がどうでもよい突っ込みをいれるのでした。観客は若者。結構イケてる若者がこんな泥沼話に真剣になって意見を言うのを見てると、平和だなあと思ってしまいました。いまだにテロ厳戒体勢中でしたが。 さて、次回イギリス漫遊記は『ポニーライディング』です。股関節に注意だ!お楽しみに。