銅版画の描画中は、手は勝手に動いていて、頭の中では一つのキーワードから連想されるものを次々を思い浮かべて行くことが多い。物忘れが段々酷くなってきたので、名前を一つ思い出すまでに考えてもいなかったことをたくさん思い出すことも多く、こうやってることって、認知症を未然に防ぐことにならないかしら?なればいいのに、と思うのでした。
金曜日に工房のエンマークさんが初個展だったので、
5人ほどで夜会場になっている三軒茶屋の『まよるか』という食事のおいしいお店に行き、お祝い&お食事。Aちゃん以外のメンバーはみんな新しい工房メンバー。最近の新人たちはみんな個性的でおもしろく、世代は随分若いけれど、そんなことは年齢を偽って暮らしている(29歳と言いはっている)わたしにとっては関係ないのだった。
この店はわたしが昔行っていた「東京版画研究所』に居たことのある女性が始めた店で、スペイン料理ほか、創作料理の数々をおまかせでドンドン出してくれる。どれも美味しくて、しかも「バルセロナのタコはおいしかった」と言えば、「タコ出しましょうか?」とホイホイと出てくるという嬉しさ。今度は「アワビおいしかった」なんて言ってみようかと思っている。壁はギャラリーとして使っていて、コースターにはご自身の版画が使われていた。久々に新鮮なメンバーで盛り上がり楽しかった。
しかし、ここ数ヶ月ですっかりお酒に弱くなり、また食欲もそんなにないために、最初に出たスペインオムレツとパエリヤとカポナータでだいたい満腹になってしまった。パエリアはたまに作るけど、今まで食べた中で一番おいしかった。お米のプチプチ具合が最高だった。トルティーヤもおいしかったなあ。ナスを味噌で味付けしたものと牛肉とキムチをのせ、ゆずこしょうをつけて巻いて食べた。自家製の生ハムもバゲットもおいしかった。パンが美味しいのはスンバラシィ〜わ〜。(結構食べてるジャン)
お酒も最初に飲んだサングリアと赤ワイン2杯でもう無理な感じだった。ここでも思い出せなかったことが一つあった。それはハンガリーの民族はアジア系だという話で、わたしはそれは「フン族」だろう、と言ったのだけど、もう一人は「違う」といいはるので、気になって仕方なかったのだった。ほかには「アッティラ」しか思い浮かばず、モヤモヤする。結局帰宅後調べ、「やっぱ、フン族じゃん〜〜アッティラ大王じゃん〜」とスッキリした。
絵は見たかって?見ましたよ、勿論。
で話は元に戻りますが、先日オバタ嬢のグループ展に銀座に行った時、古本屋で思わず手にとった「ジョージア・オキーフ」の画集を買ったのでした。表紙の花がそそられるものがあったのでペラペラとめくってすぐに購入した。カフェでランチをして、ゆっくり捲ってみて、愕然としてしまった。
「ジョージア・オキーフって女だったんだっ!!」
そうです、わたしは数日前までずっと男だと思っていたのです〜〜〜〜。
そうゆうことはよくあることながら(数年前まで翻訳&訳詞の青山南さんのことも女だと思っていた)、あの素敵なポートレートも見て知っていたのに、ずっと男と思っていたのでした。確かに、性別不詳なカッコいい顔なんだよ。でも、指がやっぱり女の人だったのだ。男だと長年思っていたせいで、スカートの写真を見ても、長い髪の写真を見ても、それでもわたしは女ではない、と思っていた。そんな男は芸術家にはたくさんいるから、全然疑いもしなかったのだ。でも、その画集に載っていた顔にそえられた指を見て、「アアッ!女だ」と気づいたのでした。繊細ながらもやさしい細いしなやかな指だった。それからもう一度スカートの写真を見るのだけど、やはり女に見えないんだなあ・・・
それでも、絵はやはり女とわかれば女だな、と納得してしまったのだった。ただ、この人はドロドロとしたものを排除していると思うので、男だと言われればそう見えるような気もする。あえてドロドロしているといえば、骨盤の穴から見た空、くらいだけど、これもシュールさと構図と色のバランスに目が行くのであって、肉体云々からはわたしには遠く離れて見える。だからなのか、わたしはそのクールさで、この人の絵は好きなのだ。しかし、女だとわかってからの見方と男だと思ってみていた時の見方とは、どうも違うような気がして、動揺が走ってしまった。そんな事は関係ない、と思いながらも、やっぱり重要なのではないか?と思ったり。 わたしはタマラ・ド・レンピッカも好きなのだけど、女とわかった瞬間にオキーフとレンピッカが結びついてしまった。まったく生まれも育ちも違う(かたやロシア貴族亡命パリ社交界の華、かたやアメリカの農家出身アート一直線)二人だけど、繊細さを超越した大胆な表現がかぶさってしまうのだ。
女はそんなところが良い。とわたしは思うのでした。ドロドロとしたものは男がやった方が魅力があるのだ。女がドロドロメロメロしているのは見るに耐えない。女は、そんなものは超越してクールに表現した方がカッコいいのだ。そうゆう女がわたしは好きだ。武士みたいな女が好きだ。そうゆう人はとても良く気持ちがわかるので、誰もいないところで肩を抱いてあげたいと思ったりする。大抵こうゆう人は男には大事にされないわけで、わたしも大事にされたいと思うけれど、こうゆう性格の場合、踏まれてもすぐに起き上がると思われているからなかなか大事にはされないので、ほとんど諦めている。だったら、せめて、わたしが大事にしてあげよう、と思ったりするわけで、そうゆう女の人にはわたしはヒジョ〜にやさしいです。女同士というのは、そうゆうところがあるなあ。そうゆうところが良いなあ、と思ったりする。
ドロドロとしてるじゃん、みんな。でも、そんなもんは自分の中にしまっておけばいいのだ。誰もそんなものは見たくもないのだ。
そういえば、その日銀座で見た絵の中に、ドロッとしたもの発見。そこだけ見ないようにしてしまった。何故にそうも「胎児」や女の生理ばかり描くのだ。「飛ぶのが怖い」以来、もうわたしはこんなモンはグッタリだ。
ドロッとした時にドロッとしたものを描いてしまったことはよくある。最近わたしは数枚そうゆうのを描いた。でも、そんなこんなを考えるようになり、全部没にした。誰もそんな苦痛に満ちたようなものは見たくはないハズで、それは見る側に立つとよくわかる。気分が悪くなるような絵は見たくないのだ。あたりまえにそうは思わないか?そういったものを見たり聞いたりして喜ぶ人には、まだ余力が十分あるだろう。
それは音楽でもいえるとわたしは思っている。聞いていて苦痛になる音楽というのがある。それがいかに実験的であろうとみんなが涙して聞くようなものであろうと、そんなことはどうてもいい。わたしが気分が悪いと思ったら、それでわたしには最後だ。まず第一に、肉体的に苦痛を伴うものに関して。これは文句無く排除。絵画やインスタレーションでも同じ気持ちだ。
2005年の9月に新宿で開かれた「ローリー・アンダーソン展』のことを思い出していた。それは、彼女のパフォーマンスの変遷の見事な身軽さを思い出して感心していたからで、一時期は時代にノリノリの感があって「フン、何さ、お軽い女」なんて思っていたのだけど、展覧会を見てその意見は彼女に対して申し訳なかった(別に知り合いじゃないけど)と反省した。たまたまNさんがバロウズのことを日記に書いていて、「ローリー・アンダーソン展』で「ぶら下がった受話器」から聞こえるバロウズの声がイカガワしくも魅力的だったのを思い出していたもんだからサ。
この、時代にノリノリの感じというのは、この方に対しては間違っていた。
ノリノリで変、というのだったらニール・ヤングの方が変だと思ってたんだった。それはちょっとズレてたからで、ローリー・アンダーソンの場合はそうではなかったなあ、とあとから思ったのでした。ただ、あのニューウエーブ、パンクの時代に、美術の世界からあまりにもオシャレに飛んで来て主役におさまった感が、嫌らしい感じがしていたのだ。でも、回顧展を見て、この人にはこうなるべくしてなった、美術も音楽も縦横無尽に乗り越えてやってきたという事実を目の当たりにして、この人を初めて好きだ、と思ったのでした。何十年もたってネ。そんなこともある。
オキーフ、レンピッカ、アンダーソン、と、良いではないか。力強いなあ。力強くて、しかも、美しい。女はこうでなくっちゃいけないな。うーん、絶対こうでなくっちゃいけないな。彼女たちは、みんな美しい。そして、ハッキリ言って身につけているもんのセンスがいい。これって、本当に重要だとわたしは思うサ。ミュージシャンでも、やっぱわたし・・・服がダサい人はゲッソリだ。
*****2005年9月、ローリー・アンダーソン回顧展を見ての日記を抜粋********
(中略)・・・きのう書いた「片想い考」ですが、さらに考えてみた。これは万人に言えることだと思って書いたのだけど、その中でも、音楽や美術やスポーツに関係している分には両想い率は高いと思った。言葉や文字に頼ると実は想いも片側通行になってしまうのではないか、片側通行でも、向こうから対応すべく来てくれればそれはそれで嬉しいけれど、来ても手を振ってすれ違うだけのことが多いような気がする。どんなに上手に言葉や文字を使っていても、「わかりあえないあなたとわたし」状態は必ずある。誤解している部分がどれだけあるかはわからないけれど、誤解はきっとある。と、とてもわたしはネガティブ。「話せばわかる」なんて言うけど、話すとわからなくなることだってあるかもしれない。だけど、音楽や美術やスポーツなど脳ミソの別の部分を使う(使ってない時が重要と考えて)、五感が大事なものでは一瞬にして両想いになれるではないか!!音楽や美術やスポーツの魅力はそこにあるのかもしれない。わたしが学生時代「主要五教科」よりも「その他」の方が得意だったのは、両想い率がそっちの方が高いからで、プロセス無しでダイレクトに「LOVE」を感じるからに違いない。
ローリー・アンダーソンの回顧展では、会場中に文章や文字が書かれていた。地球博にも言葉を使った作品『言葉の滝』で出展していた。ぶら下げられた受話器をとると、「言葉は外宇宙から来たウィルスである」と言ったバロウズが何やらしゃべり続けているし、ホログラムの中のアンダーソンもしゃべり続けていたし、オウムのオブジェもしゃべるのだった。それらは近年の作品に多いように思う。もっと古い作品でも人とのコミュニケーションに彼女の思いは向いているようだったけれど、その頃のものは音そのものであったり、身体とメディアを使ったコミュニケーションであったりしたようだ。そこから言葉と文字によるインスタレーションが増えていった理由はなんだったのかなあ。言葉の幻滅からはじまって、また言葉に戻ってきたのかなぁ。言葉を使うことこそが人間そのものという捉え方で、最終的に人間そのものがメディアである、という考え方に至ったのか、それとも肉体的に衰えたのか。どんどん内面に向かっていっているのか、そんなことを聞いてみたいなぁ、とちょっと思った。
この人の良いところは、常に新しく生まれている技術に対してとても素直に興味を示すところだと思った。それをすぐに取り入れる姿勢は、案外女っぽさを感じて好感を持った。新しく生まれて来るメディアとあらかじめ「ある」人間というメディアと、常に同期させて行こう、という考え方なのだろう、と思った。
全然関係ないけれど、壁に「わたしは157センチ」と書かれていた。実際そのくらいしか身長ないらしい。因にわたしも157センチだけど、彼女は随分大きく見えますねえ。顔が小さいからでしょうか?
誤解の積み重ねで人生は楽しくなると思えば、言葉や文字もおもしろい。誤解は自らの深層心理に所以するのだと思うけど、肉体的錯覚は脳ミソのどこも使ってないと思われる。誤解と錯覚が積み重なると妄想に至りそうな気がしてきたので、やはりちゃんと人とコミュニケーションした方が良いわよねえ・・・・と今朝悟った。
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悟ったはいいけれど、実行には移されず今に至り、妄想癖。 |